こんにちは~もっちです。
先日、ニーチェ関連の本を読んでいて、
ニーチェの『神は死んだ』という表現に改めて感じるものがあったので、
本日の題材は、『神様』についてにしました。
『神は死んだ』という言葉は、
虚無主義(ニヒリズム)を表した言葉です。
『この世に、生きてる意味や、生れた意味なんてないんだ』という立場から、
『神様なんてなんもしてくれないしな』的になり、
神への信仰心が薄れたことを、ニーチェが『神は死んだ』と表現しました。
今の時代にも、『神が死んじゃってる人』が多いと思います。
信仰の対象となる神様というと、
キリスト教のイメージが強いですね。
世界3大宗教は、一神教です。
ですが、日本の神道はじめ、
古来から受け継がれている宗教は、多神教です。
実は、ここに認識の違いがあると思っています。
誰でも、山や海、台風や雷、石や光(太陽)に
何かしらの『畏敬の念』のようなものを感じると思います。
人智を超えた何らかのエネルギー的なものを感じますよね。
その何らかの、大いなるエネルギーを感じるその対象を
太古の人類は神様的に捉えてきたと思います。
自然の優しさと、厳しさ。。
神道では、神様には『和魂』と『荒魂』があるとされ、
自然の二面性をこのように表しています。
(詳しくは一霊四魂という概念があり、もう二つ魂があります。)
そのように、自然すべてのものに畏敬の念を持っていったことから、
多神教的な考え方が生れました。
全てのものに神が宿る、、あなたにも僕にもです。
トイレにも、エンピツにも、パソコンにもww
でも、機械的な人工物にはなんとなく、
畏敬の念は感じづらいですよね。
その感覚の違いから、何かしらを感じているということが
分かるかと思いますが、
その“何かしらの感覚”を、ひとつの対象としちゃったのが
一神教で言うところの神様です。
多神教は、その物自体に神様が宿っているというように、
現実的なものを捉えていますが、
一神教は、その物の後ろに感じる『畏敬の念』を
ひとつにして語られているのですね。
ですから、根本的な考え方は一緒なんです。
でも、一神教的な『死んじゃう神様』が出来てしまったのは、
偶像崇拝をしたからだと思います。
偶像とは、簡単に言うと仏像です。
仏像を作ってそこに向かって祈るようになっちゃったわけです。
お釈迦さんは、『偶像は作るな!』って言っていたのにです。
仏像が出来ちゃった瞬間、意味が全く変わってしまいます。
畏敬の念の集合智としての神だったのが、
一個の物体になっちゃったわけです。
その一個の物体だけを神様だというから
『お前の神様は偽物だ』ということにもなっちゃったわけです。
そして、時代の厳しさと共に、
その偶像が“すがる”対象になってしまった。
本来は、尊敬、敬意、感謝というような
『ありがたいな~』という感覚だったものが、
いつしか、お願いを叶えてくれる神様になっちゃいました。
あなたも、神社で神頼みをしたことがあるかと思いますが、
神道には、偶像はありません。
何があるかというと『鏡』です。
これは、『鏡に映ってるのが神様です。手を合わせるあなたが神様なんですよ』って意味なんです。
全てのモノに神が宿る、、神性を感じる。。
これは人間の本質だと思います。
偶像崇拝的な神は死んじゃうかもしれませんが、
『ありがたいな~』と思った時に、なにか全てのものに感謝が湧き出る感覚は、
『神様に感謝』という言葉として、
常に身近に在ると思います。
そう感じる機会が、
より多い人生を歩みたいなーと思っています。
本日もお読みいただきまして
ありがとうございます。
PS:
ライフワークはある意味、
神を感じ、神と繋がる生き方だと思っています。
本当の自分のあり方で生きる・・生きられることは有難さが違いますから。
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